「じゃあ、そろそろ帰るよ」
そう言って彼が立ち上がった瞬間、どういうわけか酷く淋しくなった。
それは一度意識してしまったらもう駄目で、空腹とか、睡魔とかみたいにあたしの意識を埋める。
「…うん、」
だけど素直に言う術なんて持ってないから、あたしはただ頷いて。
玄関まで見送るべく立ち上がる。
「気をつけて帰ってね」
「そっちこそ。ちゃんと戸締りするんだよ」
「分かってる」
何気ない会話をしながら、心臓はぎしぎし音を立てた。
やだ、淋しい、いかないで。
そんな風に言えたら楽かもしれないけど、言えるわけがない。
だってあたしはそう言えるほど、素直で可愛らしい女の子じゃないんだもの。
靴をはく背中を、じっと眺める。
伸ばしそうになる手、必死に押さえつけて。
にっこりと笑う。
「それじゃ、また明日」
そう、また明日なのに。
明日になったらまた会える、なにもこれが今生の別れじゃないのだ。
メールだって電話だって、つながる手段はいくらでもある。
なのに、なのにどうして。
一晩離れてしまう事がこんなにも淋しいのか。
独りぼっちは、平気なはずだったのにな。
今までだって、そうだったでしょう。
ひとりで眠る夜なんて今更少しもこわくないし、そもそも淋しいと思うことだって稀なのに。
なのに、今夜ばかりはちょっとおかしい。
「…」
「どうしたの」
じっと、見つめられて少したじろいだ。
真っ直ぐな眼は、全て暴いてしまいそうでちょっとだけ怖い。
そう思いながら、昔そんな映画があったなぁと思いだす。
想っていることが周囲に筒抜けになってしまう、男の子の話。
もう内容なんてほとんど覚えていないけど、彼の視線の強さはある種の居心地の悪さすら呼び起こすものだった。
さみしいさみしいと。
我儘な子供みたいに考えてしまったこと、見透かされてしまいそうで怖くなる。
こんな醜い気持ち、見られてしまったらそれこそ泣けてしまうよ。
「…泣きそうな顔」
不意に、彼の手が伸びて頬を優しくこすった。
驚きに呼吸が止まりそうになる。
「…別に、そんなこと」
「そう?ほんとは帰ってほしくないくせに」
やっとのことで返した言葉にも、彼はくすくす笑うばかりだ。
最初からお見通しだと、小さな子供の悪戯を余裕で暴いてしまうような。
あたしはこの人の前だとどういうわけか、幼い女の子に戻ったみたいな気さえする。
「さみしいんでしょ?だったら、縋ってよ」
「…いやよ」
知られてしまった事に動揺して、それでも素直には言えなくて目を逸らす。
だけどすぐに捉えられて、無駄な抵抗だったと気づく。
微笑む口元はあくまで穏やかで、そのくせ抗う事を赦してはくれない。
「…別に、さみしくなんて」
言いながら、彼の服の裾をつかんだ。
そこからはもう止まらなくて、しがみつくようにして彼に抱きつく。
言ってることと行動があってない。
それでも彼は柔らかく笑って、あたしを同じ強さで抱きしめた。
「…帰らないよ」
彼が笑う。
「そんな顔されたら、帰れるわけないじゃないか」
はいた靴を、脱ぐ音がして。
あたしを離すことなく、彼が玄関に上がる。
そして歌うような口調で言った。
「淋しがり屋のあまえたがりの、天の邪鬼」
「…うるさい」
「だけど世界で一番可愛い、僕の女の子」
その声があんまりにも愛おしげだったから。
あたしは言い返すこともできず、ただ腕に力を込めた。
やっぱり同じつよさで返してくれることを知っているから。
(淋しがりな野良猫一匹!)
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